個展を終え、あらためて「書」について考えてみた。

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昨日、

ギャラリーの片づけを終え、
完全に個展が終了。
ものの30分で作品は外され、

そこは何もない空間になる。

この一カ月のあいだに、

この空間に、いったいどれだけの感動を、喜びを、驚きを、
そして幸せを生み出すことができたのだろうか。
大きいかもしれないし小さいかもしれない。
得られたことがたくさんある反面、課題もたくさんある。

良くも悪くも、これが、今の僕の力だということを自覚できた。

初めての個展を終えた今、あらためて、僕にとっての「書」を考えてみました。

表現したいこと、表現すべきことはすべて作品が語ってくれる。

僕は作品に対して、それだけの責任を持たなければなりません。
あるいは、見ていただいた方の感性の趣くままにその心情に何らかを響かせることこそが、

僕の「書」の役目だと思っています。

僕の考える「書」の魅力、

それはそのテーマである「言葉そのものである」ということに尽きます。

確かに、「文字自体の意味」がときとして大きなリスクになりうることは事実です。

しかし一方で、その「意味」が大きな魅力にもなりうるのではないかと考えています。

例えば、「海」という文字を書いた場合、

それを見た人は(その意味を知っている人は)100人中100人が「海」を思うでしょう。
「海」という字をみて「空」を考える人はいないだろうし、「森」を想像する人もいない。
これは、「形而上的なその言葉の意味」という観点からすれば、

イメージを限定された、自由のない表現手段としての「言葉」の側面です。

けれど、100人が考える「海」は決して同じものではないということも確かです。

それぞれにとっての「海」。
その言葉に、母なる存在として包み込まれるようなあたたかさを感じる人もいるかもしれない。
辛い思い出がある方は、苦しさを感じるかもしれない。
「海」という言葉のその先にあるのは、
どこまでも「個人的な『思い』」なのではないでしょうか。
100人の、100通りの「思い」。
誰の「思い」も間違いではない。

そういった「自由」の側面こそが、書の表現しうる魅力なのではないかと思うのです。

そのような「思い」の一つのかたちとしての「書」、

それが僕の目指している書のスタイルです。

恥ずかしながら、私は、私自身の書に涙したことがあります。

しかしそれは、きれいな文字が書けたとか、
その書が高い値段で売れたとか、決してそういった理由からではありません。
その書を見た時に私が見ていたのは、
デフォルメされた「文字」ではなく、

お贈りした方と共有している「思い」でした。

人は、その美しさにはもちろんですが、

それと同時に感じる「思い」に、心を震わせるのではないかと思う。
音楽に例えるならば、
確かに、その旋律のあまりの美しさに感動すると同時に、
その旋律に共鳴して大切な人を思ったり、決意を新たにしたり、

その「思い」にも、感じるものがあるのだと思うのです。

もちろんこれは、あくまでも僕個人の考えにすぎません。

「書」というものの一つの考え方を伝えることができたら、と思います。

この展覧会を支えてくださった方々、

ご来場いただいた方々、

本当にありがとうございました。

どれだけ和紙に向かっても、

墨を磨っても、
まだまだ書き足りません。
もっともっと書きたいことが、書くべきことがあります。
これからもよろしくお願いします。